日本住宅株式会社

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大槌町災害公営住宅プロジェクトストーリー

「不可能」に挑め。

2013年に竣工した岩手県内初の大規模災害公営住宅。
異常事態が続く中、復興の光となる町を創り上げたのは、
地元東北への想いと常に挑戦を続ける企業姿勢だった。

東北の復興は、他人事じゃなかった。

執行役員 公共事業部長

野村 徹也

 「大槌町大ヶ口地区災害公営住宅(全35世帯)」のプロジェクトは、2013年1月にはじまった。震災から約2年。市街地には津波の爪痕が残り、町の基盤整備はいまだ手付かずに近い状況だった。
 公共事業部長の野村は、「まるで戦争の後のようだった」と当時を振り返る。仮設住宅の整備はかろうじて終わっていたが、より環境の整った住宅の必要性を感じたという。
 これに先立つ2012年10月、日本住宅の東京本部では、被災地全域における災害公営住宅の整備事業に参画するためのプロジェクトチームが発足していた。そのリーダーに推されたのが、前職で大規模住宅街区の建設に携わってきた野村。経営陣、特建事業部、技術本部、第二建築部を中心とする部署横断型のチーム編成は、震災復興に対する全社一丸の姿勢そのものだった。「当時の社内には、滝村会長以下、地元企業として一丸になって国難に立ち向かおうという空気がありました。そうした中で初めて受注した案件が、(独)都市再生機構発注の本件です」。

災害公営住宅大槌町大ヶ口地区の街並み(大槌町営・(独)都市再生機構発注)

想定外の職人不足。
綱渡りが続く日々の中で。

 やがて工事は2月8日に着工。日本住宅はでき得る限りの準備をして臨んだ。しかし異常事態と呼べる状況が、野村たちに想定外の困難を突きつける。その一つが、沿岸部の深刻な職人不足だ。
 「プロポーザルの段階で声を掛けていた施工業者は、結局、全社お断りされました。職人の手配は、工事とほぼ同時進行。基礎、建て方、鉄筋、型枠と、工程に合わせて業者に出向いて頭を下げ、シビアな価格交渉をする業務が延々と続きました」。
 協力を打診した業者は、岩手県内陸部、青森、秋田、新潟、宮城各県を中心に100社以上。このうち実際に工事を請けてくれたのは十数社。その間、遅れて受注した「屋敷前地区(全21世帯)」の工事が動き出し、野村たちの苦悩に拍車をかけた。
 全工程の肝となる建て方の大工は、各エリアの日本住宅のネットワークを駆使して、ようやく目途をつけることができた。「東北にいなければ全国のどこからでも連れてくればいい」。諦めるわけにはいかなかった。

ピンチを救ったのは「地域との絆」だった。

 職人の確保については、プロポーザルの際、あえて大槌町内の建材会社を共同事業者とした戦略も功を奏した。結果的に、その会社と関係のある地元の大工が、少ないながらも貴重な労働力を提供してくれたからだ。
 同業各社が頭を悩ませていた職人が寝泊まりする場所の問題も、地域密着の企業文化がピンチを救ってくれている。「実はコンパスホームで家を建てられたお客様が協力を申し出てくれました。その方のご厚意で、被災した元の住まいをリフォームし、約30名の職人を寝泊まりさせてもらったのです」。

日本住宅だからこそ成し得た仕事。

 そして2013年8月、プロジェクトはようやく終わりを迎える。常に先の読めない不安な日々を過ごしてきただけに、竣工式で無事引き渡しを終えた時は感無量だったという。
 様々な課題に対し、部署を横断したプロジェクトチームで臨む柔軟な組織のかたち。迅速な意思決定とそれを遂行する現場力。できないで終わらせるのではなく、常にチャレンジを続ける企業姿勢。地域密着だからこそ得られた様々な協力。本件はまさに、日本住宅だからこそ成し得た仕事といえるだろう。その後、野村たちは、プロジェクト解散後も公共事業部として、災害公営住宅1052世帯、宮古警察署、大槌病院等を建築し、地域の皆様に貢献することとなった。
「過去に前例のない仕事は、企業と個人を強くします。今後もこうした強みをさらに磨き、さらなる飛躍を遂げたいですね」。

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